糸島市の国指定史跡・志登支石墓群です。お客様の物件案内の帰り、久しぶりに立ち寄ってみました。
ここから見る可也山はとてもきれいです。
雑草が伸びていましたが、史跡はこのように横たわっています。
一辺2mほどもある平たい石は、人の頭くらいの石を支えにして乗っかっていたはずですが、今はその支えの石は見当たりません。同じような形の石をいくつか確認できます。
弥生時代早期から中期にかけてのお墓で、朝鮮半島に出土するものと同じだそうです。
数年前、近所のブロッコリー農家の手伝いで、すぐ横の畑を掘っていたら、コツンとスコップの先が硬いものに当たりました。
かなり大きい感じです。
「遺跡だ!」
オヤジさんと二人、夢中になって掘り返してみると、出てきたのは長さ1mほどの石柱。
が、明らかに人工的な加工が施された、ホームセンターなどにあるような庭の敷石か何かでした。残念。
この史跡、超大型の銅鏡などが発掘され女王の墓だったと推定される平原遺跡に比べると地味な存在ですが、面白いのは、このあたりが弥生時代には海のそばだったこと。
今の糸島は弥生時代、北の志摩郡と南の怡土(いと)郡に分かれ、ほとんどが内海(水道)で隔てられていました。東の今津湾と西の加布里湾は今よりもっと内陸部まで入り込んでいたわけです。ちょうどこの史跡付近が唯一陸続きで、橋の役割を果たしていました。なので、大陸との交流の玄関口だったという説もあります。
やがて土砂が沖積し、ひょっとすると埋め立てられて平野となり、一面の穀倉地帯となるわけですが、それを示すように、すぐ近くに庄屋群がまとまって集落を形成しています。
立派な門構えの農家が道の両側に並んでいます。
古い建物が比較的まとまって残っている数少ないエリアの一つです。
昭和の時代から時間が止まってしまったかのような光景です。
集落の一角にある志登神社は、海神である豊玉姫や和多津見神が祀られ、古代は海から参拝していたそうです。